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〔 スヴァスティカ | オーム 〕 |
---- OM(オーム) ---- 神の超越性を示す神秘の紋章 神秘の音節そして紋章であるオーム(オウム)もまたインドをはじめヴェーダの影響を受ける様々な土地に見られます。日本では宗教団体のシンボルとして知られるようになりましたが、よく見て歩くとお墓やお寺、その周辺にもオームの印を見つけることができます。古代より瞑想の対象として、苦行者の唱えるマントラや行き交う巡礼者の挨拶として、オームの音節と紋様は世界各地で崇拝されてきました。サンスクリット語が世界の原語であるように、オームの音節は全ての音の源であリ、科学者は宇宙の果てにもこの音が存在することを認めています。その限り無い意味について多様な解釈や哲学的な憶測がありますが、オームは幾何学的なヤントラと同様に、私達の身体と宇宙に存在しています。それは色と形の衣装を着けたAUMの音節で、この音節は全物質世界の源であり、ブラフマン=宇宙と個々の精神 としての性質を持ちます。そしてその後ろには全ての源である神・精神の人格が自らの光の中にあるのです。 |
神秘の音、マントラとしてのAUMの音節
オームの意味や影響力を認知するには、A+U+Mの音節を瞑想する、歌う、話す、または低声で繰り返し称えるチャントが最も効果的です。
オームはヴェーダを基本とする様々な宗教や宗派によって崇拝されていて、
この音節を何度も繰り返し耳にすることは、ヨギ、哲学者や精神科学者の探し求める絶対ブラフマン(自己)の理解をもたらすと知られています。 |
オームと哲学:ウパニシャーデンの言葉 (ヴェーダの秘教) それを理解した人はすべての願いが満たされる…(Upanishaden) 「オームはすべての源であり、現在と未来を同時に含む永遠の時、そしてすべてであり、このすべてを超越したものもまたオームである。」(Mandukya- Upanishad)
オームについての解説の多くはウパニシャーデンに見出すことができます。 |
オームと自己実現の科学(ヨーガ)
自己を見い出し、それにより神を認識することはあくまでも各個人自らが遂行するものですが、自身の思慮分別に頼るのではなくヴェーダ文献が与える方法に従うことは重要です。例えばインドのチャルバカ哲学では、我々の意識は4つの自然要素の混合物から単に発生すると信じていますが、これは意識とその源について詳しく解説しているヴェーダのシステムに基づいたものではありません。人が形や色(自我・知能)、感覚からなる肉体やその所有物で自身を識別するのは、"マヤ"(錯覚)の強い影響を受けているからです。私と私の(物や身体)…という認識がひとつになってしまっている状態なのです。しかし毎夜訪れる"トゥリヤ"は自己の本質を思い出させ、そこでは母もそれ以上母ではなく、乞食も大富豪もその名刺を失います。
こうして各個人は本当の自己を毎度認識することが出来るのです。自己は"私"という名前を持ち、人々は最初の個人名"私"のあとに親やグルによって与えられた心と肉体を示す名前を持つのです。(私の名前は…)それは私は誰なのか、全体の中でどこにいるのか、感覚はどこに存在するのかというような疑問を引き起こします。そうでなければ人類に神や精神学を重んじる宗教や哲学は存在しないでしょうから。
神や魂についての認識は、このヴェーダに知られるトゥリヤによって私達に伝えられるのです。 |
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オームと宗教 精神学の重要性を知る人々にとってオームサインは最も神聖な印であり、無限のバリエーションで表現され愛されてきました。 また、インドやアジア各地だけでなく今日には世界へも広がり、西洋諸国ではエキゾチックなデザインまたは装飾として、本来の意味には触れられないまま流行の一部となっています。人々が精神学をより重んじていた過去の時代には、最も崇高な神格のシンボルとして強く意識されていました。中央インドの聖河ナルマダに浮かぶ島には、2×3kmに及ぶの石造が美しい寺院と共に横たわります。イスラム教の支配によりそれは部分的に破壊されましたが、今日にも多くの巡礼者が訪れ、"オームカナート"、シヴァ神の聖地として崇拝されています。(写真集オームカレシュワー参考) |
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AUM、過去と今日
以前、グル(スピリチュアル・マスター)への入門を望む生徒は厳しい集中力の試験を通ることが必要でした。これは液体で満たされた椀を手に持ち、音楽隊や踊り子などの様々な妨害を受けながら一定の場所を周るもので、一滴のしずくもこぼすことなく成し遂げた者だけが弟子として認められました。しかし、16世紀より続いたイスラム教やイギリスの支配により、このようなヴェーダの伝統は後退し、その後はヒンドゥー教が顕著になってゆきます。今日には弟子はグル(教祖)によって募集され、神聖さは激減し、試験はヨガ教室への入学金の支払いに取替えられています。
不明解なヨガ教室や団体に所属する生徒の多くは、大衆の無知を利用する疑わしい教祖による犠牲者だといえますが、
願望や執着心によって自らこのような教祖に従う人も多いことから、これらの詐欺行為も自然に起こります。 各人の精神的な発達に大きな影響を及ぼすグルを受け入れるにおいて、生徒は注意深くあるべきです。もしグルが間違っていたなら??ヨガは大衆によるものではありません。神と自己を知り、その現実を自らの人生の中に取り入れることを望む人や、ヨガ教室および団体に時間とお金を浪費したくない人は、全てのグル達のグルである神そのものを尊師として受け入れることができます。ヴェーダにも知られるインドの有名な諺には"君が一歩を踏み出せば、神は百歩を歩み寄る"とあります。まずは701節からなる神聖な詩、バガヴァッドギータを注意深く聞くこと。ギータは神自らが与えた崇高な精神の詩であり、太陽をランプで照らそうと試みるかのような宗教者や哲学者の書いた教本ではありません。
そしてウパニシャーデン(sruti)は正しく承認されたギータの解説・参考書です。
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真実を求めて 牛の糞を燻らせた円の中央に座り、 若いサドゥーはマントラを唱える。 ・・・ Om Shanti ・・・ |
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To be Vegetarian is Nonviolence in Action. |
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© by Fumiko