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Sadhu- Mahatma農民 M.P
 慣れ親しんだ村の人々は、カメラを見ると急いで家に掛け込み、服を着替えて髪にくしを入れてから「はいどうぞ」。 いつも楽しい写真撮影のひととき。
 インド中のトップテーマはカーナーの話。豊かな食文化を支える村の女性達の会話は、ローティ・ダール・サブジ・チャーイ…まさに食べ物の連続です。そのほかにも人々は自分の人生や家族、地元の神々や寺院、巡礼の思い出など快く語ります。哲学的な意識を持って暮らす彼らは、結婚・家庭・放浪・死、といった人生の課程を、実例を挙げて説明してくれます。

 ドイツ人と日本人、かけ離れた人種の組み合わせである私達に最初に向けられる質問は、『サーディ ヘイ?(結婚してるのか?)』。これは彼らの道徳観における重要なポイントであり、昔、ある聖地でこの質問に『友人だ』と答えたところ、瞬く間に村中が大騒ぎになったことがあります。 子供を連れているといくらか自動的に夫婦とみなされ、"ジャーマン&ジャパン、ヒトラー&カミカゼ "と呼ばれることに…。


 南インド・アンドラプラデッシュの聖地、スリサラムで出会った巡礼者は、マハラシュトラ州(中央インド)からやってきた旅人です。ひんやりとした寺院の片隅に座リ、ユニークあふれる旅の話を聞かせてくれました。村や家族が神の祝福を受けられるように、裸足で寺院から寺院へと巡礼するタパシヤ(苦行)を実践しています。
 観光地はメイクアップされた伝統に限られてしまい、カルカッタの国立博物館にはインド全ての民族が紹介されていますが、もちろんそれらは人形でしかありません。寺院や聖地には誇り高く身に着けられた各地方の民族衣装や装飾、そして伝統意識を持つ様々なインドの人々との出会いがあります。

  ラジャスタン、タール砂漠で過ごした農家の奥さんは、赤ん坊を腰に巻きつけ、ゆりかごの枠をかついで畑に行きます。木陰に置いたゆりかごに、ハンモックのように布の両端を縛るとできあがり。子供を乗せて揺らしておくと良く眠るものなのです。こうして彼女達は午後の畑仕事を手伝います。ここでゆりかごの効果を知った私は、後に手製の籠に娘を乗せて家事をすることになりました。


 とれた野菜や家畜のえさを家に持ち帰る女性。
大地に生きる農家の女性達は40キロあまりの薪や水がめ、なんでも頭の上に載せて運びます。重い荷物を持って長距離を歩くには頭は理想的なポーターであり、バランスを保ちながら直立した体勢で筋肉にあまり負担をかけずに運びます。

 
シヴァ神は゛ナンディ"に乗る。

Nandi

ダンマルー




 ヴェーダの神々は動物を伴います。たとえば神々の王インドラは象に、幸運の女神ラクシュミはふくろう、川の女神ナルマダはワニ、破壊神シヴァは雄牛に乗ります。だからシヴァ寺院やシヴァにまつわる全ての場所には、必ず゛ナンディ(雄牛)"も祭られているのです。
 右写真、マヘシュワーの巨大なナンディは三椏槍(シヴァ神の武器)の印とともに自由に放されていて、悠然と村の中心を横切ります。このような雄牛は仕事をするために飼われているのではなく、全ての村人から養われているのです。餌のありかを自由に放浪するナンディは、普段はおとなしい性格ですが、行く先を邪魔されることを嫌うので、むやみに近づかないほうが良いのです。傍を通るときは手でその額をなでて敬います。
  神話にも語られているように、ナンディが通りかかると人々は"ドゥルルル"のマントラで呼びかけます。するとナンディは立ち止まり、嬉しそうに大きな声をあげて答えるのです。この゛ドゥルルル"マントラはシヴァ神の持つでんでん太鼓、゛ダンマルー"の音を真似たもので、シヴァに呼ばれていると感じるナンディは準備万端!と答えるのでしょう。死の神ヤマラジャを乗せる水牛もまた同じように呼びかけることが出来ます。

 



インドの結婚式にて




ヒマラヤ結婚行進曲 mp3, 70kb



   新郎はお札で飾る



結婚式の楽団

 
ヒマラヤンホルンが山々にこだまするヒマーチャルプラデッシュの結婚式は、村じゅう総出の大賑わい。

 ヒンドゥーの結婚式は Vivaha- Yagnaと呼ばれます。ヤンガとはヴィシュヌ神や神々への供儀。 離婚率の低いヒンドゥー社会では結婚自体が神への奉納と認識されるので、恋愛婚にはさほどの重点をおきません。 結婚相手は仲介人と両親によって決定され、同カースト内での近親婚を避けるためにその多くは遠距離の家族で取り決められます。 パートナーが適応するカーストである場合、日常生活における実用的な問題が少なく、お互いの考えや伝統を良く理解し合うことが出来ます。恋愛婚は時に大きな失望を伴う場合があるので、特に適応カースト外の結婚は拒絶される場合が多いのです。


 次はマディヤパラデッシュ、クシャトリの結婚式です。花婿は家族の保護を約束する刀をさして馬に乗り、財政力を示す紙幣や ゛State bank of India" のネクタイもつけて颯爽と。寺院にて結婚の供儀を行い、その後招待客には豪華な菜食の食事が振舞われます。私達は彼の結婚式に招待され、家族や村の人々と一緒に花嫁のすむ町へ彼女を迎えに行きました。



馬に乗る花婿は誇らしげに家庭生活への道をすすむ。





伝統的に女性が結婚相手の選択権を持ち、花嫁が花婿の首に花輪をかけると、結婚が決定したことになります。




 
        Congratulations !


 こうして我々の友人、ループナラヤンは首に巨大な花輪を得たのです。彼女の実家で盛大な披露宴を催したあと、花嫁はループナラヤンとその家族が暮らすマヘシュワールへ出発します。
  花嫁は花婿にひかれて嫁ぎ先の家に入り、夫やその両親と人生を共に暮らします。夫はヴェーダの神として敬われ、家族を保護するとともに家庭での発言・決断を下します。各自が伝統的な知恵によって家庭での役割を担うのです。


 新婦の美しい花嫁姿を恍惚と眺める女性達。お色直しは新婦だけではありません。親族の女性も地元マヘシュワールの豪華なサリーを一日に何度も着替えてその美を披露します。何日も泊り込んで結婚式に参加する彼女達の荷物が膨大になるのは言うまでもありません。休憩時間をはさんで饗宴は昼も夜も続きます。
 食べて踊る結婚の式典は約一週間にも及び、インドでも結婚式に莫大な費用をかけますが、数時間で終わる日本の結婚式とは違った、重みを感じる人生の一大行事です。


 夫が妻よりも先に死を迎えた場合、一人になった妻は自分から火葬の火の中に入り共に死を選びます。これを゛サティ"と言い、今では禁止されていますが近年まで(多分現在でも)この夫婦の弔いは実践されてきました。女性は、子供が無く夫に先立たれた寡婦として社会の評判に苦しみながら生きるより、サティを選んだのです。
 チットガール(ラジャスタン)の要塞がムスリムの攻撃を受けて占領されたるとき、夫を失った兵士の妻達21000人! は、イスラム教徒の手に落ちることを避けてサティに身を投げました。結婚生活は神への犠牲と認識され、夫婦は戒律を訓練する人生のパートナーとして共に過ごします。






都会の結婚式にはこのような車も登場。





路傍の家族生活



 鍛冶屋の一家は放浪しながら農具や家庭の道具を作って暮らします。鎌やすき、計量器など、鉄屑は路上でリサイクルされてゆくのです。客は鉄屑と少しのお金を持ちより、鍛冶屋はそれを新しいものに作りかえます。
早朝、女性が朝食の準備を、子供達が鍛治の火を用意すると、Mr.鍛冶屋(写真左)は寝床から出てきて、水パイプを一服。彼は7人の家族を養います。



生と死

 死ぬことは誕生することでもあり、ヴェーダによるとその身体を失うことは、服を着替えるのと同じことなのです。古くなった服を脱ぎ、生きている間に形作られた欲求にしたがって再び新しい服が与えられます。再生や転生はこのように理解されていて、新しい身体を得て再び誕生すると、その体および自我を自己として認識するようになるのです。植物として、動物として、人間や半神として……
 インドの人々がどのように死を取り扱うのか、興味深い点が沢山あります。一般的に人が死ぬと、それが愛する人であっても公共の場で嘆き悲しむことをしません。愛する人の魂は死んではいないのです、その衣服が無駄になっただけなのです。そしてその身体は速やかに埋葬されるべきなのです。不変である個人の魂は、どこかで速やかに新しい人生をスタートさせることを人々は知っています。しかしヨガの知識と実践は、この再生のサイクルから脱出して、生と死の苦しみを逃れる道へと人を導きます。

 インドには各宗教や宗派によって様々な埋葬の仕方があリますが、死は常に周りの環境を汚染する汚れであり、儀式にも影響します。たとえば火を崇拝する宗教では聖火を汚すことがないように土葬や水葬にします。 又は空気・大地・火などの自然要素を崇拝する宗派では高いところに吊り上げて、はげたかなどの鳥によって処理します。

火葬場


火葬の準備




水葬の跡

  ヒンドゥーの場合、衛生学に基づきその多くは火葬されます。一般的な火葬場は二本又は複数の河が合流するサンガムと呼ばれる場所で、そこでは破壊の神シヴァが崇拝されています。火葬の際は、故人が三途の川を渡る案内料を払うことができるように、ルピーの硬貨を口に入れておくのです。 焼かれた後、親族は残った灰を集めて聖水に流します。焼け跡に残ったルピーは、乞食や火葬場に暮らすアゴラサドゥによって拾われて再び使用されます。バザールで時折見かける黒く焼けたルピーこそ生死の循環の承認なのです。
 火葬に必要な薪代を払えない人は、死体を布にくるんでそのまま河に流すので、川の水位が下がると魚や他の動物の食べ残しが川岸に横たわっていることがあります(右写真)。イスラムやキリスト教では土葬が一般的です。

 ヨギや聖者の場合は゛サマディ"と呼ばれ、彼らにとっては物理的な死もありません。
 サマディの人は、瞑想に座し、食をとらずにエネルギーの消費を最小限に押さえて一日または月に一回ほどの呼吸と心拍で身体の意識を持たずに残ります。身体は腐らず、爪や髪は伸び続け、寺院では洗浄して花を飾って敬います。それはろう人形のように見えますが、良く見るとそこに生命が宿ることを確認できるそうです。このような聖者はサマディに入ってから数百年後に再び目覚めると、むかし暮らした村の様子を人々に語るといいます。今日、部分的に禁じられているこのような神秘に出会うことはまれで、サマディは特別な土葬として実践されるようになりました。深い墓穴を掘り、そこに聖者が入るとその穴を塩で満たし、上にサマディ寺院を建てるのです。その他には、達成したヨギが神聖な川に自らを沈める"ジャール‐サマディ"があリます。

 武装して水牛に乗る死の神はシュリ ヤマラージ、日本の閻魔さんです。宇宙の立法者である彼の務めはヤマ‐ドゥータスといい、死を迎えた故人の魂がすすむ道を決定します。どこでどのように再生するかはこのヤマラージの決定によるものです。人々が一生をかけて捜し求める物質的な喜びは、死と共に消えてなくなり、すぐさま新しい欲求が出現します。この輪廻を終えるために人はヨガの道を歩むのです。愛情を持って神を求める魂はヤマラージによる死を通らずに、ヴィシュヌ‐ドゥータスによる再生のない純粋な精神の世界を目指します。


サドゥー・ヨギ・聖者

  ヨギは結婚や生死に左右されずに暮らします。彼らの目的は再生の循環からの解放であり、これ以上の誕生や老化、死の苦労を望みません。このようなカルマのもとに生まれて人生を修練に費やす人や、家庭生活を終えてから家族を離れ、放浪しながら老後を過ごす人々もあります。ヴェーダの伝統にしたがって暮らし、人々に悟りを伝達し人生のアドバイスを与えます。





神々への挨拶



Namaste! Namaste!



写真集:女神の庭の人々へ


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© by Fumiko