長い歴史のなかで、インドの国土は全世界よりトルコからペルシャ、その後はインダス川東岸へ、そして今ではヒマラヤまで縮小されてきました。古代のバラータ王国は、世界の中心として大きな影響力を持つアーリアン(北インド)とドラビディアン(南インド)の国でした。
インドを訪れた旅人や冒険家の歴史は数千年前にもさかのぼり、その豊かな国土と菜食文化、神話や宗教による哲学と神々の存在に世界は深く印象付けられてきました。インドの人々はこのような外国からの訪問者について頻繁に語ります。
約5000年前、マハーバーラタの戦争に参加するために金髪の兵士達がグジャラートに上陸し、今も多い金髪や白い肌の人々はその子孫だといわれています。世界の王は、その民族を率いてバラータの戦争に集結したのです。
約2300年前、ヨーロッパを治めていたアレキサンダー大王もまた東へと進み、カラコルム山脈に到着すると、その向こうに広がるインドの強さと豊かさに驚嘆して足を止めたといいます。今も山岳部(現パキスタン)には白人の種族が多く見られ、彼らの存在は歴史を語っているのです。また古いインドの貿易関係は西アフリカにまで及んだそうです。約2000年前には“Isa Maharaj”(イエス・キリスト)が12から29歳のあいだインドの聖地を巡り、ヨギや哲学者、聖王(リシ・ムニ)と交流を深めていたことも報告されています。そこでヴェーダのヨガシステムを習得したイエス・キリストは、後にイスラエルへ戻り、その教えを世界に広めました。彼は十字架に掛けられたのち、再びインドに戻るとカシミールで家族生活をおくり、その墓や子孫は今日にも存在するといわれます。マルコポーロ、中国の冒険家や僧もまたインドを訪れ、土地のマハラジャにゲストとして歓迎、保護されて各地を巡りました。 500年前にはヨーロッパからインドへの航路が発見され、その富に目をつけたヨーロッパの国々は、ゴア・ディウ・アンマン・ポンディチェリを植民地にします。そこへイスラム教の制圧による長い戦争が始まり、闇雲に破壊するイスラムの進入によって、インドの文化は大きなダメージを受けました。さらに1947年の独立までの間、イギリス人(アングレジ)によって再び制圧、植民地化され、開発が進められてゆきます。数百年にも及んだ他国の制圧にマハトマガンディの率いる独立運動が発展し、無暴力でインドをイギリスの支配から開放するために、人々は Freedom Fighter として立ち上がりました。こうしてパキスタンとバングラデッシュがインドから分離してイスラム国となり、“バラータ”は再び自由国となりました。
ヒッピー、ヒッピー!!
60年代中ごろ、個人旅行が身近になると共に世界中の数多くの旅人が地球を巡り始めました。インドへの道が開かれると、その自然な魅力に惹かれた旅人(ヒッピー)は、さらにインドの哲学、文化や思想へと旅を深め、ヨガや精神の科学を受け入れてゆきました。今日の旅人のあり方はヒッピーから発祥しているともいえます。Love and Peace, Flowerpower … 世界で唯一、菜食の文化を持ち、社会が非暴力を実践するインドの文化は、欧米の若い思想と結びつきました。インドでは牛だけでなく、全ての生き物や自然が神聖な存在として考慮されているのですから。
テクノパーティの準備、ヒマラヤにて
|
その頃インド全土にわたって上映された映画“チャラス”(ハッシシ)は人々に大きな衝撃を与えました。この映画は、インドにやって来るツーリスト、ヒッピーや各種団体に加わる外国人がセックスや麻薬、賭博や肉食などの悪習にふける場面を描き出したのです。その頃、新しい哲学の道を開発しようとしたインドのグル達は、国や地域からの反感を受けて、多くはアメリカやヨーロッパへと移住してゆきます。インド中の人がこの映画“チャラス”とそのテーマソングを知っているのです、本当に。35年が過ぎた今でもラップやレミックスバージョンとして再登場するほどです。 "Dam maro Dam, Dam maro Dam 〜" ( smoke after the smoke ...) 誇り高きインドの人々は、このようにして外国人旅行者に対する多少の軽蔑を示し、子供達は出会う外国人にヒッピー!と呼びかけるわけです。こうしたインドの人々の反応は、特に悪い意味を持つものではなく、子供っぽい彼らのいたずらの一部だと思えます。
観光地化してゆく町や村に起こる様々な摩擦の中で、増加してゆくパーティー・ツーリストによる子供達への道徳的な影響を心配すると共に、その中に何か笑えるテーマも必要だということです。付け加えますと、外国人旅行者が好むビーチでの日光浴や海水浴も、彼らにとっては滑稽な光景です。海水は聖王アガスティヤムニの尿として知られているのですから・・・・・
|